ポームに戻る   

     三重秘伝抄


《本抄の大綱》
(本文)
「正徳第三癸巳予四十九歳の秋、時々御堂に於いて開目鈔を講ず、・・・」
     〜
      「・・・、第九に正像に未だ弘めざる所以を示し、第十に末法流布の大白法なることを示すなり。 」
 (概要)

 開目抄にある、
「一念三千の法門は但法華経の本文寿量品の文の底に秘し沈めたまえり、竜樹・天親は知っても而も未だ弘めたまわず、但天台智者のみ此れを懐けり」
という文は、3つに分けることができる。

1つ目は「(標題、論の目的)」で、
 「一念三千の法門は」の部分。
2つ目は「釈(内容の本質)」で、
 「但法華経の本文寿量品の文の底に秘し沈めたまえり」の部分。
3つ目は、「(結語、まとめ)」で、
 「竜樹・天親は知っても而も未だ弘めたまわず、但天台智者のみ此れを懐けり」の部分。

 以上3つのうち、「(内容の本質)」は特に重要で、文の始めの「」の字は、@『法華経』、A『本文寿量品』、B『文の底に秘し沈めたまえり』の3つすべてにかかっていて、それぞれ、@『権実相対』、A『本迹相対』、B『種脱相対』にそれぞれ対応する。 この3つの相対が、本抄の題号である「三重秘伝」にあたる。
これを踏まえ、以降の段から10の講義を開始しようと言っている。


《第一段》
(本文)
「経に曰わく、諸仏・世に興出したもうこと懸遠にして値遇すること難し、・・・」
     〜
      「・・・則ち為れ已に一切の三世の仏を供養するなり。」
 (概要)

 一念三千の法門に巡り合う難しさを、
@ 一念三千の法門が説かれること自体が困難(稀なこと)である。
A もし説かれたとしても、、それに居合わせることが困難である。
B もし聞いたとしても、それを信受することが困難である。
という3つに分け、それぞれ文証を挙げて説明している。


《第二段》
(本文)
「文に三段あり。初に一念三千の法門とは標なり、次ぎに但法華経の下は釈なり、・・・」
     〜
      「・・・本尊抄に云く、彼は脱・此れは種なり等云云。秘すべし、秘すべし云云。」
 (概要)

 まず最初に、テーマとなっている開目抄の文
「一念三千の法門は但法華経の本文寿量品の文の底に秘し沈めたまえり、竜樹・天親は知っても而も未だ弘めたまわず、 但天台智者のみ此れを懐けり」 を標・釈・結の3つの相対に分け、釈と結について軽く説明した後、 「当分」と「跨節」の2つに分けて、やや詳しく述べている。
 そして、「天台の三種の教相」の3つ目と、「大聖人の三つの法門」の3つ目が、実は異なっていることを明かし、 これを同じものだと思っている諸宗を破折している。


《第三段》
(本文)
「将に三千の数量を知らんとせば須く十界・三世間・十如の相を了すべし。・・・」
     〜
      「・・・二には世間に約して数量を明かす、所謂百界・千如是・三千世間なり。開合異なりと雖も同じく一念三千なり云云。 」
 (概要)

 一念三千とは何かを理解するため、十界、三世間、十如是の順に説明が行われる。  その上で、一念三千というもの自体、天台の摩訶止観五巻ではじめて論理的に体系化されたもの であると述べている。


《第四段》
(本文)
「問う、止観の第五に云く、此の三千は一念の心に在り等云云、一念微少何ぞ三千を具するや。 ・・・」
     〜
     「・・・法華経を謗る心強きを悪業深重と号して地獄界と名づくるなり。 故に知んぬ、一念に三千を具すること明らかなり。」
 (概要)

 一念三千の「一」と「三千」を対比し、一から三千に開かれる妙を説明する。  止観の文を挙げ、その文を二つに分け、一念三千が、@「御本尊」と、A「信心する人」の一身に具わることを示す。


《第五段》
(本文)
「次の文に云く、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せず、・・・」
     〜
      「・・・石女に子の無きが如し、諸経は智者尚・仏にならず、此の経は愚人も仏因を種ゆべし等云云。」
 (概要)

 迹門方便品に一念三千が説かれていることを、二乗作仏(能詮)と一念三千(所詮)の関係から示し、 璽前教(特に華厳経と大日経)の中に一念三千があるとこじつけた真言の空海(弘法)の邪険と善無畏の盗み出しを破折している。


《第六段》
(本文)
「諸抄の中に二文あり一には迹本倶に一念三千と名づけ二には迹を百界千如と名づけ、・・・」
     〜
      「・・・答えて云く百界千如は有情界に限り一念三千は情・非情に亘ると云云。」
 (概要)

 迹門ではまだ百界千如であり、本門で一念三千が完成することを、開目抄の文を文証として説いている。
 特に、本門で初めて説かれた久遠実成について詳しく説いている。 この上で、日講の啓蒙を破折している。


《第七段》
(本文)
「今文底秘沈と言うは上に論ずる所の三千は猶是れ脱益にして未だ是れ下種ならず、・・・」
     〜
      「・・・答う当体抄・勘文抄等往いて之を勘うべし云云、今且く之を秘す云云。」
 (概要)

 真の一念三千は文上の本門ではなく、文底に沈められた文底独一本門の事の一念三千の南無妙法蓮華経であることを、 本因妙抄の文を文証として説き、文底を文上から探し出そうとする日講の啓蒙を破折している。


《第八段》
(本文)
「問う事理の三千・其の異なり如何。・・・」
     〜
      「・・・蓮祖の諸抄四十巻の元意・掌中の菓の如く了々分明ならん。」
 (概要)

 文上の本門はまだ理の一念三千にとどまり、文底独一本門になって事の一念三千となることを説いている。そのゆえんは、 人法一箇の故と説き、大聖人が事の一念三千である御本尊と一体の 久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経と一体であることを明かしている。


《第九段》
(本文)
「文に云く、龍樹・天親は知って而も弘めたまわず但我が天台智者のみ之を懐けり文、 ・・・」
     〜
     「・・・三には仏より譲り与えられざるが故に四には時来たらざるが故なり云云。」
 (概要)

 竜樹・天親が、一念三千を内には知っていても、それを外に向かって説かなかった理由を 3つ(機なし、時なし、付嘱せられ給わず)に渡って説明している。
 天台については、日蓮大聖人の第一・第二法門は体系的に説いたのに対し、  第三法門(事行の南無妙法蓮華経)は内に秘めて説かなかったと述べ、その理由を4つ  (自身堪えざるが故、所被の機無きが故、仏より譲り与えされざるが故、時来たらざるが故)挙げている。


《第十段》
(本文)
「問う正像未弘を結する其の元意如何。・・・」
     〜
      「・・・享保十乙巳の歳三月上旬、大石の大坊に於いて之れを書す。」
 (概要)

 前段の、天台が南無妙法蓮華経を流布しなかった4つの理由に対応させて、大聖人が流布する理由を4つ (自身能堪の故、所被の機縁に由るが故、仏より譲り与うるが故、時已に来るが故)に分けて説明している。
 特に第三の仏からの付嘱の問題については、「他方の前三後三」、「迹化の前三後三」という、 日寛上人独特の12の釈を通して明らかにしている。



   ポームに戻る   

inserted by FC2 system