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     文底秘沈抄


《本抄の由来》
(本文)
「仏は法華を以って本懐と為すなり、世人但本懐たることを知って未だ本懐たる所以を知らず、・・・」
     〜
      「・・・乃ち是れ待絶なり。於戯天晴れぬれば地明きらかなり吾が祖の本懐掌に在るのみ。」
 (概要)

 最初に、仏教においては法華経が最高のものであるということはみんな知っているけれども、 「なぜ」法華経が最高なのかが解かっていないと指摘し、 三大秘法抄に『法華経を諸仏出世の一大事』としていることから、法華経には三大秘法が説かれているからだとしている。
 更に、これを明らかにするため、「一大事」の文を三大秘法に配し(一→本尊、大→戒壇、事→題目)て、 三大秘法の一つ一つについて述べていきましょうと言っている。


《本抄の大綱》
(本文)
「法華取要抄に云く、問うて曰わく如来滅後二千余年・龍樹・天親・天台・伝教の・・・」
     〜
      「・・・初めに本門の本尊を釈し、次に本門の戒壇を釈し、三に本門の題目を明すなり。」
 (概要)

 仏法の秘宝が三大秘宝であることを法華取要抄の文から明確にし、これから、その三大秘宝の一つ一つ(本尊、戒壇、題目)にいて説明していきましょうと言っている。


《本尊-@》
(本文)
「夫れ本尊とは所縁の境なり・境能く智を発し智亦行を導く、・・・」
     〜
      「・・・次に人の本尊を明し、三に人法体一の深旨を明かす。」
 (概要)

 まず本尊とは何かについて、「根本として尊敬する所縁の境である」と明確にした上で、どれを正しい本尊と定めるべきかが重要であると説く。
 特に末法にあっては熟脱の本尊ではなく末法下種の本尊が正しいと明かす。
 そして法本尊、人本尊、人法体一の3つについて、後の3つの段でそれぞれ説明しましょうと言っている。


《本尊-A》
(本文)
「初めに法の本尊とは、即ち是れ事の一念三千・無作本有・南無妙法蓮華経の御本尊是れなり、・・・」
     〜
      「・・・答う未だ曾て人に向かって此くの如き事を説かず云云。」
 (概要)

 法本尊とは、「事の一念三千」の南無妙法蓮華経であると最初に結論し、その「事の一念三千」とは 文底独一本門のことであることを、文上の理と事の順に詳細に説きおこしてゆく。その中で、観心本尊抄を巡る諸派の4つの解釈を破折している。
 また、理と事の比重の置き方が、正像時代と末法では異なることに触れ、 天台南岳から与えられた本尊も、あくまで「理」であったと説いている。


《本尊-B》
(本文)
「次ぎに人の本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕、末法下種の主師親、本因妙の教主・・・」
     〜
      「・・・斯る日蓮を用ゆるとも悪敷敬わば国亡ぶべし等云云。之を思い合わすべし。 」
 (概要)

 人本尊は、体教宗用名から明確に日蓮大聖人であると初めに結論を述べ、 体(自受用報身)教(主師親)宗(本因妙の教主)用(大慈大悲)名(南無日蓮大聖人)の順に文証と現証を挙げて証明していく。
 特に体(日蓮大聖人が久遠元初の自受用報身の再誕であること)については、 内証外用の両面から詳細に説いている。


《本尊-C》
(本文)
「三には人法体一の深旨とは、謂わく前に明す所の人法の本尊は其の名殊なりと雖も・・・」
     〜
      「・・・故に事の一念三千の本尊と名づくるなり、秘すべし秘すべし云云。」
 (概要)

 まず、法本尊と人本尊は、2つの名を持つ一つの実体であることを明かしている。 しかし仏法では、人よりも法の方が重んじられてきたことに触れ、その歴史的経緯を多くの文証を挙げて説明している。 その上で、そのような「法が人よりも優れる」という考え方はあくまで色相荘厳の虚仏(垂迹)と 法を比べた時の考え方であり、真の仏である自受用身(本地)の場合には人法体一になることを文証を挙げて説いている。
 最後に、この極理は仏法哲学の真髄であり、深甚の法門であることから、「秘すべし秘すべし云々」と締め括られている。


《戒壇-@》
(本文)
「夫れ本門の戒壇に事有り義有り、所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処・・・」
     〜
      「・・・無始の罪障忽ちに消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん云云。」
 (概要)

 本門の戒壇には「義の戒壇」と「事の戒壇」の2つがあり、そのうち「義の戒壇」とは、 本門の本尊が住する(存在する)場所のことであることを明かしている。一方、「事の戒壇」とは、すべての人々が 懺悔滅罪する場所であると説き、三大秘法抄の文を挙げて、勅宣や御教書といった国としての手続きなども 事の戒壇の建立と位置づけることができるかもしれないと大聖人が述べておられ、 更に、「時を待つべきのみ」とも述べられていることを挙げている。


《戒壇-A》
(本文)
「問う、霊山浄土に似たらん最勝の地とは何処を指すと為んや。・・・」
     〜
      「・・・最も此の処に於いて戒壇を建つべきなり、自余之れを略す。」
 (概要)

 富士が本門の戒壇にふさわしい場所だとする道理を3つ挙げている。
 1つ目は富士山が日本一の名山であること、2つ目は富士山がインド、中国、比叡山(迹門戒壇)の時と同じように、 政治の中心地から東北の方位に位置していること、 3つ目は富士山は古来から日蓮大華山と呼ばれていたことを挙げている。


《戒壇-B》
(本文)
「次に文証を引くとは。本門寺の額に云く大日本国富士山、・・・」
     〜
      「・・・乃至是の中皆応に塔を起て供養すべし等云云。」
 (概要)

 富士が本門の戒壇としてふさわしいことを示す文証として、北山本門寺にあった「」と、 大聖人による「身延相承書」、日興上人の「門徒存知」や、 日順の「詮要抄」を挙げて説いている。


《戒壇-C》
(本文)
「問う有は謂く凡そ身延山は蓮祖自らの草創の地にして・・・」
     〜
      「・・・其の影を惜しむべき云云、此の文に准例して今の意を察せよ云云。」
 (概要)

 御書を文証として身延を最勝の地とする意見に対して、道理と「法身の四所」の説明を通して破折し、 こうした身延への固執が、結要付嘱の正体を知らないために起きているのだと指摘している。
 また大聖人の墓所があることから身延を最勝の地とする考え方に対し、 全身の舎利と粉砕の舎利の説明を通して破折している。
 更に、日興上人の時代に起きた、地頭波木井実長の謗法を挙げ、 身延はすっかり謗法の山と化してしまったと述べている。


《戒壇-D》
(本文)
「問う、癡山日饒が記に云く、富士山に於いて戒壇を建立すべしとは是れ所表に約する・・・」
     〜
      「・・・源を尋ね香を聞いで根を討ぬとは是なり。」
 (概要)

 日饒(要法寺30世)の、富士山を本門戒壇建立の地とすることに必ずしもこだわる必要がないとする言い分に対し、 文証・道理・過去の事実等四つの点から破折し、更に五つの点から富士を本山とすべきであると結論している。


《題目-@》
(本文)
「夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり、是れ即ち聖人垂教の元意、・・・」
     〜
      「・・・信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡身即仏身なり云云。 」
 (概要)

 本門の題目とは、南無妙法蓮華経の修行であると始めに結論を述べている。
 また御本尊を信ずること()と、南無妙法蓮華経と唱えること()の 両方が具足してはじめて本門の題目となることを、 馬鳴の「大乗起信論」や天台の「法華玄義」、 大聖人の「当体義抄」「本因妙抄」をひきながら説いている。


《題目-A》
(本文)
「問う、宗祖云く、如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即ち・・・」
     〜
      「・・・是れ文底秘密の大法にして寿量品の肝心本門の題目是なり。」
 (概要)

 報恩抄にある御文を本迹一致の文証とするなどの誤った解釈があることを念頭においた上で、 この文は正確には南無妙法蓮華経の題目を意味しているのだということを、 一往名通、再往別義、一往脱益、再往下種の原理から明らかにしている。  また南無妙法蓮華経は「文」でも「義」でもなく「意」であり、 法華経の哲理が最終的に帰着するところである文底下種の妙法であることを明かしている。


《題目-B》
(本文)
「問う有るが謂く本門の一品二半の妙法なる故に本門の題目と云う・・・」
     〜
      「・・・享保十乙巳の年三月下旬、大石の大坊に於いて之れを書す 」
 (概要)

 本門の題目を一品二半とする説(日什)や、八品所領とする説(日隆)をまず否定した上で、 本門の題目とは寿量品の肝心、文底の事の一念三千である南無妙法蓮華経であることを 7項目に渡ってひとつひとつ御書から文証を挙げて明かしている。



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