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     当流行事抄


《本抄の大綱》
(本文)
「大覚世尊教えを設くるの元意は一切衆生をして修行せしめんが為めなり。・・・」
     〜
      「・・・即外道の弟子なりと云云。慎しむべし慎しむべし勤めよや勤めよや。」
 (概要)

 仏法を論ずる場合、大きく法体(教法面)と修行(実践面)に分けられる。 本抄ではこのうち特に修行について論ずると言っている。
 修行には正行(唱題)と助行(寿量品と方便品の読誦)があり、 更に、方便品の読誦は「傍」であり寿量品の読誦は「正」となる。 助行の正と傍はいずれも正行あってのものであると説いている。


《方便品読誦-1》
(本文)
「問う凡そ当流の意は一代経の中には但法華経・法華経の中には但本門寿量品・・・」
     〜
      「・・・唯是れ一法の両義にして明暗の来去同時なるが如きなり。 」
 (概要)

 我々が方便品を読誦する意義について、「借文」「所破」 の両意があると述べている。 文上では迹文の方便品であっても、我々が読誦する方便品は寿量品を家とするものであり、 これを読誦することは、そのまま本門の内容を表すことができると説いている。


《方便品読誦-2》
(本文)
「問う、寿量品が家の方便品とは其の相如何。・・・」
     〜
      「・・・荊渓云く若し通を識ることなくんば安ぞ能く別を知らん等云云。 」
 (概要)

 法華経本門を知る前に読む迹門(体外の迹門)と、法華経本門を知った後に読む迹門(体内の迹門)という ふたつの立場から、寿量品を家とする方便品について述べている。
 この中で実体と影、説かれている実相等について、現代でもありがちな質問者の問いに答えながら詳細に説明している。


《方便品読誦-3》
(本文)
「問う御法則抄に云く在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は・・・」
     〜
      「・・・此の文即ち是れ久遠名字の本仏・唯仏与仏乃能究尽なり云云。 」
 (概要)

 日辰の論から、迹門は読むべきではないと考えている質問者に対し、所破には体外の迹門と体内の迹門、 借文には久遠名字所証久遠本果所証のそれぞれ二意があることから、破折すべきところを破折し、 借文すべきところは借文しながら、南無妙法蓮華経を表すことに正意があると述べている。


《方便品読誦-4》
(本文)
「問う、今当門流・或は但十如を誦し或は広開長行を誦す、・・・」
     〜
      「・・・比丘偈の長篇に望むれば其の前を通じて皆長行と名づくるなり。」
 (概要)

 大石寺門流で方便品の長行を読むことの意義について述べている。
(現在の我々の勤行では、十如是(略開三顕一)までだが、広開長行の意を含んでいる)


《寿量品読誦-1》
(本文)
「問う凡そ当流の意・本門寿量品の中に但文底に依って以て宗旨を立つ、・・・」
     〜
      「・・・我実成仏と説くと言わば即ち是れ文底顕本なり、両種の顕本、其の相斯くの如し。」
 (概要)

 寿量品を読誦する意義について、「所破」と「所用」の両意があると述べている。
 寿量品には、文上顕本(文上脱益=久遠本果)文底顕本(文底脱益=久遠元初)の2つがあり、 文上を所破し、文底の義を所用して読むのだと説いている。


《寿量品読誦-2》
(本文)
「文上の顕本に亦二意有り、一には謂く体外、二には謂く体内なり。・・・」
     〜
      「・・・収羅結撮・帰会法華と云うなり云云、明文赫々たり、誰か之れを信ぜざらんや。」
 (概要)

 寿量品の文上顕本の体内と体外について説いている。文底顕本を識る前の寿量品を「体外の寿量品」といい、 文底顕本を識って以降の寿量品を「体内の寿量品」という。ここでは、五百塵点劫の下種以来化導されてきた 釈尊の衆生が中間と在世を経て妙覚位に上ったこと(等覚一転名字妙覚)について詳細に述べている。


《寿量品読誦-3》
(本文)
「問う大段の第二・文底の顕本・若し誠証を尋ぬれば応に何れの文を・・・」
     〜
      「・・・法華一部通じて妙法と名づく、豈・所を以て能に名づくるに非ずや。」
 (概要)

 文底顕本の「本」とは南無妙法蓮華経のことであると明かし、久遠元初の本地自行とそれ以降の垂迹化他について、 法華玄義第七巻の文を取り上げて説明している。その上で、大聖人が久遠元初自受用報身であることを 5つの観点から詳細に論証し、さらに釈尊の本果第一番の成道はあくまで垂迹化他であり、 久遠元初の成道こそが本地の自行であることを総勘文抄の文を通して論証している。 この久遠元初の仏法を顕すことが文底顕本であり、内証の寿量品とは妙法(南無妙法蓮華経)であると重ねて述べている。


《寿量品読誦-4》
(本文)
「問う両種の顕本・体内体外の文理・分明なること宛も白日の如し、・・・」
     〜
      「・・・所破は是れ助行に非ずや、故に知んぬ但一義を挙ぐるのみ。」
 (概要)

 これまでに述べた方便品の借文・所破と、寿量品の所破・所用の意味を総括して解説し、その文証を挙げている。


《寿量品読誦-5》
(本文)
「問う諸流の勤行各々不同なり、或は通序及び十如・提婆品等を・・・」
     〜
      「・・・本門の正意は寿の長遠を顕わす云云。大覚抄に云く云云。」
 (概要)

 日蓮大聖人と日興上人が御在世当時に実際に方便品と寿量品を読んでいたことを、文献から論証している。


《唱題行-1》
(本文)
「夫れ唱題の立行は余事を雑えず此れ乃ち久遠実成名字の妙法を・・・」
     〜
      「・・・千里の路を企つるが如し、是れ吾が家の最深秘・蓮祖化導の一大事なり。」
 (概要)

 唱題行について明かしている。唱題とは「南無妙法蓮華経」であり、 本未有善の末法の我々にとっては「信」こそが最も大切であると述べている。 (信ずべき対境については次章以降で明かされる)


《唱題行-2》
(本文)
「問う末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべきや。・・・」
     〜
      「・・・浄行・安立行は左の下座に居す・是れ霊山の儀式を移す故なり。」
 (概要)

 「信」こそが最も大切であるという前章の論を受けて、何を「信ずる」べきかについて述べている。 まず馬鳴菩薩の「大乗起信論」を文証として、「三法(仏・法・僧)」を信ずるべきであると説き、 しかも正像時代と末法では三法の内容が異なると明かし、末法の三法は、 日蓮大聖人(仏)・南無妙法蓮華経(法)・日興上人(僧)であると明かしている。
 また日興上人を僧宝とすることに対する疑難を破し、更に、御本尊の相貌は霊山の儀式を 表したものであると明かし、その立体的な構造についてインドの国風を絡めて詳細に説いている。


《唱題行-3》
(本文)
「問う日饒が記に云く寿量・題目・倶に是れ正行なり云云。・・・」
     〜
      「・・・用なり助行なり・所詮の妙法五字は体なり正行なり。」
 (概要)

 先ず久遠即末法の原理を明かし、久遠元初には本地難思境智の妙法のみしかなかったことから、 種子の法体とはまさに南無妙法蓮華経であると述べている。更に、このことを いくつかの文証を挙げて論証している。


《唱題行-4》
(本文)
「問う我等唱え奉る所の本門の題目其の体何物ぞや。・・・」
     〜
      「・・・我等衆生は九界なり、是れ則ち真実の十界互具なり云云。」
 (概要)

 唱える題目の体は御本尊のことであり、御本尊の体は日蓮大聖人の御生命であることを明かしている。


《唱題行-5》
(本文)
「問う、我等之れを唱え奉る其の功徳如何。・・・」
     〜
      「・・・天真独朗の即身成仏是れなり云云。余は且く之れを略す。」
 (概要)

 唱題の功徳を、三道即三徳の原理を中心に説いている。 唱題によって三道が変毒為薬され三徳(調和のとれた人格、智慧、行動)となってあらわれると説いている。


《唱題行-6》
(本文)
「問う古従り今に至るまで毎朝の行事・丑寅の刻・之れを勤む・・・」
     〜
      「・・・享保十乙巳の歳五月下旬、上野の大坊に於いて之れを書す。」
 (概要)

 大石寺門流で丑寅勤行を行う意義について、大聖人が竜ノ口で子丑の刻に発迹顕本したことに由来すると説いている。



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