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日本の仏教のこれから

薬王品の五段目 「諸余怨敵 皆悉摧滅」を学んでいて思った。

破権門理の法理は天台が言い出した言葉だ。 このことは、当時から権教を勝とし、実教を劣とする思想が蔓延していたことを想像させる。 法華経に入って、「この法華経こそが最高の経典だ」という文証が数限りなく登場するにもかかわらず、なぜ人は権教に惹かれてしまうのか。 破権門理は天台の言葉であると最初に書いたが、天台の第三代の座主である慈覚は伝教大師の弟子でありながら真言を取り入れている。 世間の一般ピープルならいざ知らず、法衣をまとった坊主ですら権教の教えにしがみつくのはなぜか。 

法華経がなかなか信じ難い教えであることは理解できる。 諸法実相、永遠の生命、即身成仏、いずれも歴劫修行により得られた慢心を打ちのめす教えであり、しかも目に見えないもの、この世に生きているだけでは理解し得ないものばかりだからだ。 この釈迦の教えは、当時の人々が理解するのは相当に困難だったと想像できる。 法華経自体の中に、5000人の増上慢が退座する様子が描かれるくらいであるから、法華経に対する抵抗は並々ならぬものがあったろう。 だからこそ、信じた功徳は絶大であるのだが。

この通りなので、仏教の正当な流れが濁ってしまったのは日本だけではない。釈尊滅後の直後のインドからあったのではないか。 爾前経は解り易い。 法華経は理解しにくい。 爾前経は地獄極楽などの物語的要素で成り立っているから庶民にも理解しやすいのだ。 坊主が職業坊主として食べていくためには、庶民ウケするものを営業活動の前面に出さなければならない。 しかしそのようなことが何代も続くと、それが当たり前になってしまい、勝劣が曖昧になる。 その最たるものが、日本でいう神仏習合であると思う。 神仏習合の歴史は平安時代に遡る。 大聖人もこのような実態を目の当たりにしていたのではないか? そしてこの雑乱こそ、国家の危機の原因と考えたのではなかろうか。

こうした物語構造から構成される信仰は今後どうなっていくのか?

私の個人的な考えだが、このような物語、神話的構造を持った信仰は今後衰退していかざるを得ない。 そもそも信じるには無理があると思う。 単なる比喩です。 喩え話ですというような言い訳はこの期に及んで通用しない。 ようやく、実教を正直に伝えてきた者に光が当たり始めるのではないか? といっても、この先2ないし3世紀はかかるだろう。 しかし、物理空間は情報空間の一部であるという仮説が、すでに物理学の分野で登場しており、この仮説が証明されれば、一念と三千が理論的に連結する (というより、互いに包摂関係にある) ことが理解できるようになる。 また、仏法で「霊魂」を扱わない立場をわかりやすく数学的に証明する手法が生まれている。 

このように、物語構造では理解出来ないが、実際に「正しい」と認めざるを得ない証明が続々登場すれば、釈尊が説いた本来の教えが再び注目されることになるだろう。

2010/01/11

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