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「正しさ」 とは、ある特定の理想状態を作り出す ことであるより、多様で自由な諸関係から生じる 諸矛盾や諸問題をうまく調停し、つねに多くの人間が 納得できるような、より合理的で公正な関係のあり方を 作り出してゆく努力、ということである。 こうして、各人の多様な価値観の承認が前提となる かぎり、ある絶対的な価値観や世界観を「正しさ」の 特定の内実とすることはできなくなる。 一人の人間の「本質」は、単に彼がどんな境遇、 どんな身分、どんな意見を持った人間か、ではなく、 どのように自分を表現するか、という点に現れる。 彼が自分の問題をどのような仕方でもち、これを どのように語り、どのように対処し、行動するか、 その「仕方」が彼という人間の「内実」なのである。 竹田青嗣 『哲学ってなんだ』 ------------------------------------------------------ 尊敬する竹田青嗣先生の、最も好きな言葉の一つである。 われわれは、何が正しいかを知っている、というよりも、 正しい宗教がどのようなものかを知っている。 永遠のテーマとも考えられがちな問題に対して、「正解」を 知っているとは学会員でない人たちから見れば、甚だ不愉快な ことであろう。そういうとき、われわれは、敢えて自分の 知っている答えをバーンと強引に叩きつけるわけにはいかない。 正しき哲学を持っているがゆえに放つ光彩や、 正しき哲学を持っているがゆえに示せる実証を通じて、 正しい答えの何たるかを、周りの人達も納得してゆく、 というふうでなければならないと思う。 私は学会員としても、「これが正しい」という答えに コミットしたくない。コミットは、極限に達したと同時に、 変化が終了したことを意味する。変化の終了は、 つまり成長の停止だ。 正しい答えを知っていても、学び続けなければならない。 「じっとこらえて今に見ろ」の精神で努力し続けなければ ならない。惰性と慢心は、我々が想像しているよりも ずっと進行が早いことを知るべきである。 そうした努力の過程の中に、充実と、納得が存在している。 「正しさ」とは、その目まぐるしい回転の中にようやく 朧気に見出される動的なものであり、静的な「正しさ」に コミットし、惰性と慢心に身を任せてしまっては、 何のための正しさか、まったくわからなくなってしまう。 走るのをやめてはならない。 ------------------------------------------------------ 2011/10/05 |
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