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題目を送る


我々学会員はよく、「お題目を送る」という言い方をします。
「お題目を送る」とは、
「唱題することによって自分が得られる功徳を、別の誰かにそっくり投げ出す
という意味だと理解しています。
とは言え、唱題をあげるのは自分だから、どんなにリキんだって、自分に福運はついてしまうわけですが。

題目を送る相手になるのは主に、悩んでいる人、題目をあげたくてもなかなかあげられないような環境にいる人を指すことが多いですね。
要するに、「お題目を送る」とは、「祈ってあげる」こと。

◇◇◇

この、送る題目のことを、ウチの祖母は「送り題目」と呼んでいましたが、地方や世代によって言い方が違うようです。
学生時代の友人は、「助題目(すけだいもく)」
{助太刀のイメージからきたのだろう} と呼んでいました。
言葉は違えども、考えていることはみな同じで、自分以外の誰かの福運を祈念することにかわりはないようです。

◇◇◇

この行為は、よっぽど自分自身に余裕がないとできません。
自分のことを祈るのは、いわば信仰者の本能みたいなものですが、他人のことまで祈ることができるとなれば、 そうとう境涯が広がっていると考えてよいのではないでしょうか。

もちろん、自分のことを祈るのが悪いと言っているわけではありません。
他人のことを祈るのが上等で、自分のことを祈るのが下等であるとも思いません。
あげる題目が同じで、御本尊が同じなら、その功徳に差が出るわけがありません。
まったく同じクオリティーです
戸田先生が、「御本尊は幸福製造機」と言ったのは、このことを意味していると思います。

同じ人が同じ機械を同じように操作すれば、操作する目的が違っていても、目的に対する寄与度は同じはずです。

◇◇◇

しかし我々の実感としては、自分のことを祈る場合と、他人のことを祈る場合とでは、かなり違っています。
そう思いませんか?

「違うでしょ?」と言われても、その実感を思い出せない方は、実際にあなたが誰かに対する 送り題目(助題目)をあげてるシーンを想像してみるとよいでしょう。
よく、「○○さんの手術大成功」とかをみんなで祈ったりするでしょう。 あの感覚です。

自分が重い病気だとだと診断されれば、その治癒を祈る題目も悲愴的になりがちですが、 親しい会員仲間が治療するとなれば、「大丈夫! 絶対に治る!」みたいに言いません?
口先だけの場合は別として、けっこう本気でそう思っていたりする。
誰かのためにみんなで開催する唱題会とかでも、けっこうハツラツと、熱く祈っていたりする。
唱題の声が溌溂としていたり、唱題に集中してるということは、「治る!」 「私の唱題で治してみせる!」と 本気で思っているってことです。

こんな風に、他人のことを祈る時、我々は「祈りが叶うことに何の障壁もあるはずがない」と 素朴に信じることができているのです
でも自分のこととなると、「とは言っても...」という一念が障壁となる。
本能的に自分のことを祈るくせに、その一念の中で確信に至るまでに難クセがつく。
それはまるで、竜女の成仏を疑った智積と舎利弗のようです。

◇◇◇

法華経の中で、竜女は文殊菩薩に折伏され、即身成仏しました。
それに難クセをつけたのは智積菩薩と舎利弗です。
2人とも、成仏はそんなに簡単なもんじゃないと言い張ります。
智積は、女、子ども、人間以外の動物の成仏はそもそも有り得ないと言い、 舎利弗は、成仏には長時間の厳しい修行が必要で、「"即身"成仏」は有り得ないと言います。
智積は外面的な表相から決めつけ、舎利弗は内面的な努力が必要と決めつけています。   (しかも、その努力もどうせ無理だろうと決めつけている)

◇◇◇

私たち一人ひとりの中に智積と舎利弗がいます。
「入信して日が浅いし」(舎利弗)
「オレ、もともと福運ないし」(智積)
「オレ、もともと生命力ないし」(智積)
「これは業病だ」(?)
「いままで学会活動頑張ってこなかったし」(舎利弗)
といった一念が生じるのは、自分のディテールはよく見えるからです。
他人のディテールはよく見えないか、見えていても(知っていても)良い面を見ている (あの人はいままでまじめに頑張ってきたから...というような) か、 大した問題ではないと思っている。
だから、祈りは必ず叶うと素直に信じることができてしまうのです。
この傾向は、学会二世以降の人や、教学好きのベテランにより顕著な傾向だと思います。

「祈るときはバカになれ」と、学生部の頃、先輩によく言われました。
男子部(創価班)では、「アタマで考えるな。脳ミソは筋肉だ!」と言われました。脳ミソ筋肉はよかった。

「慣れ」とか、「二世のプライド」とか、「惰性」とか、「学生部の二乗根性」を捨てなければ。

考えるべきところや極めるべき物事は多くあるとしても、結論的には、御本尊の功徳は理性では絶対に理解できない、 それは感得するしかない。言葉でいくら議論しあっても、結局は感得するしかないことを納得せざるをえないという 結論になるでしょう。 過去30年間の議論が実際そうだった
この件を理性にまかせていては、結局あの"難クセ"が多くなるだけでしょう。

◇◇◇

学会の世界が美しいとか言われるのは、人数の多さとか、建物の立派さとか、 表相の仲の良さや団結のためではなく、お互いを祈れる一念の網目によって、多くの人が護られ、 送り題目のネットワークによって、一人ひとりに光が当てられるからではないでしょうか。

自分のことを祈る前に、まず思い切って他人のことを祈る習慣をつけたいと思っています。
そのように意識しているときは題目のリズムも音量も気持ちよくなるし、その流れで自分のことも祈ることができれば、 ますます気持ちがよくなります。
お題目を上げてスッキリした瞬間から、確信と実証の好循環が生まれるのだと思っています。


2011/12/09

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