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仏法の正しさは科学で証明可能か?


前回のコラムで、「この件を理性に任せていては」云々のくだりに質問が寄せられたので、 これに対する回答として、私の考えを書いてみました。
今回のコラムは、宗教と科学の関係についての考察となります。

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戸田先生は、仏法はやがて科学によって証明されるだろうと予見しました。  それを知った私は中学生の頃からずっとこの問題について考えてきました。  宇宙論や生命論を仏法と絡めてあれこれ考えているうちに理系教科に強くなり、 それは私が理系の道に進むことになったきっかけの一つとなりました。

しかし大学生の時、そうした思索に一つの終止符を打たせる概念が飛び込んできました。 それが、「ハイゼンベルグの不確定性原理」です。

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「ハイゼンベルグの不確定性原理」とは、簡単に言うと、超ミクロの世界においては、 物質の位置と運動量を完全に正確に観測することはできないということです。  正確でない代わりにどうするかというと、観測の結果を確率で表現 できるというわけです。

「確率で表現する」というと、人間は確率でしか知ることはできないものの、 現実的には、人の知り得ることのできない一意な解がひとつだけ存在するはずだ、 と考えがちです。 このような考え方を終生捨てることができなかったのは、かの A.アインスタインです。 しかし量子力学の立場はそうではなく、確率分布の通りに、 薄ーく現実が広がっているのだ、と解釈します。

ニュートン力学では、運動方程式に命が吹き込まれた瞬間から、永遠の未来に向かって すべての動きが一意に決定されることになります。 しかし確率分布の世界では、 未来は一意に決定されません。 現在より後の事象の可能性も確率分布に従って、 薄ーく広がっている (重なり合っている) ことになります。

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この考え方をもう一重踏み込んで、我々の生命活動に当てはめて考えるとどうでしょう。  ニュートン力学では、初期条件が与えられた瞬間から、つまり宇宙が始まった瞬間から、 すべての未来が決定されることになります。 しかし人間には自由意志があるから、 運命を変えようと抵抗するだろうと考える人達もいました。 しかし、脳の神経の信号は、 所詮物質によって交換されているわけで、その信号を司る物質もニュートンの 運動方程式のルールに則って動いていることを考えると、「運命を変えようと抵抗する」 動きすらも、すべて、宇宙が始まった瞬間から定まっていたことになります。  ただ、この世界の (宇宙の) すべての原子や分子にまつわる運動方程式を解くよりも速く、 現実が過ぎ去っていくので予測不可能に思われていたというわけです。

この、すべての原子や分子にまつわる運動方程式の解は計算できないものの、結果は予め 決まっているわけで、その解と未来のすべてを知っているような空想上のキャラクタを 設定し、「ラプラスの悪魔」と名付けました。

しかし、超ミクロな世界の実際は、一意的に解が定まるのではなく、いわば広がって いるのです。 そして観測した瞬間に、その確率の中から一意の解が選ばれます。 これが「現実」、あるいは「現象」として観測されるわけです。 多くの確率の中から 切り取られ、選ばれた解なのです。 繰り返しになりますが、確率だからといって、 「隠れた解が一意に決まっているものの現在の科学ではそれを知ることができない」 というのではありません。 あらゆる状態が実際に重なり合っているのです。 ここは難しい所なのですが。

観測していない時、一意な解が存在しないのですから、 ラプラスの悪魔も存在できません

もうここまでくると、科学で仏法を証明するどころか、「これ以上はお手上げ」と 科学の限界を認めたようなもので、この先まで踏み込むことは科学では無理だろうと 私は考えてしまいました。
そのかわり私は、一意に決定しない解の確率分布の中に、 「可塑性のある未来」 の可能性を 見つけることができました。
一念の力によって「自分の意志で未来はつくる (あるいは変える) ことができる」 という 可能性だけが残されたのです。

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かつての私は、『物質 (質量) とエネルギー』の交換法則の中に、あるいはその法則の 延長線上に『一念と現実』を繋ぐなんらかのヒントが見つかるのではないかと期待 していました。 しかしこれでは、単に『見えるものと見えないもの』を対比しているのに すぎません。『物質とエネルギー』の関連性は形而下的なテーマであり、 『一念と現実』の関連性は形而上的なテーマです。 この二つを並べて論ずることは ただのこじつけになります。 しかし『物質とエネルギー』は「現実」であり、一念に 現実を変革する力があるなら、ここに何らかの交換則が存在するはずだという アイディアは、なかなか捨てがたいものがあります。 しかし、この交換則による変換は、 「特異点の手前と向こう」のように、共通の (あるいは普遍的な) 論理や記号で表現できるものではない のではないかと、私は考えています。

考えてみれば、もし、科学で仏法が説明できるとすれば、 科学は仏法を包含することになってしまい、仏法の存在価値は科学より下に なってしまいます

交換法則はあるのだろう (仏法は正しいのだろう) と仮定して、それを証明する方法 はないと考えるのが妥当です。 あるいは、未来の決定や完全な観測が原理的に 不可能であるのと同様に、現代の科学(あるいは論理、数学、記号、言語)の方法で、 仏法を表現すること自体が、原理的に不可能であると考えるのが妥当だと思います。

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「そんなはずはない!」と、いろんな声が聞こえてきそうなのですが、 ではそもそも、何をもって、「仏法が正しい」ことの証明とするのでしょう?

例えばものすごく卑近な例として、三角形の合同を証明するためには、
1.三辺が互いに等しい (三辺相等)
2.二辺とその間の角が互いに等しい (二辺夾角相等)
3.一辺とその両端の角が互いに等しい (二角夾辺相等)
のいずれかが成立していることを示せば証明終了です。
では、仏法の正しさを証明するためには何を示せばよいのでしょう?

生命の輪廻を証明しても、仏法の証明にはなりません。 三世の生命を語る宗教は掃いて捨てるほどあります。
ならば、仏法で語られている様々な教義について一つ一つ証明していくのでしょうか?
しかしそれでは、仏法の教義全体としての統一性をほぐしてしまうことになりかねません。
どのようにすれば、「御本尊」の正当性やその功徳を証明できるでしょうか?

哲学では、この世界の実在すら証明できていません。 それなのに、実在の世界に変革を与える仏法の正しさを証明することは 果たして可能なのでしょうか?

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ここで、数学や理論に疎い人が陥りがちなのは、「仏法が証明できない=仏法は正しくない」という誤解です。 「仏法が正しいことを科学の記法で表現できない」ことが、「仏法は正しくない」ことを示していることにはなりません。
正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。その両方に、主張する権利が平等に存在するということです。 仏法の正しさとか、創価学会の正当性とかにこだわっているかぎり、この問題を正しく理解することはできません。
正しいか、正しくないか、証明できるか、証明できないか、ということではなく、 「仏法を科学で表現できない」ということが、我々にとって何を意味しているのか を考えることが重要です。

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もし、仏法の正しさが、科学によって証明されたとしましょう。  そのとき我々は、その証明のセンテンスの中に何を見るのでしょうか?  そこに表現されているのは仏法ではなく、「我々の思考様式そのもの」 ということになるのではないでしょうか。 
そしてそこには、結局のところ、理屈をこねくり回してみても、 満足の行く結果は得られない (つまり、心からの納得はできない) し、 証明されたからといって、広宣流布が進むとも思われません。

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ゲーデルの不完全性定理では、「正常(無矛盾)な論理系には必ず証明不可能な命題が存在する」ことを示しています。

(突然何を言い出すのか、チンプンカンプンという方は、別途調べてみてください)

つまり不完全性定理では、 「理論ですべてを説明すること」 の不可能性をこそ、 示しているのです。
しかしそんなことは、実に700年以上前、日蓮大聖人がとっくに解っていたことで、 大聖人が「理」と「事」の相補と相対を強調しているのは、恐らくそういう意味です。
大聖人は、理論ではすべてを包含できないことをすでに理解しており、 「理の一念三千」と「事の一念三千」を立て分け、相対し、それらの相互関連の中から 仏法としての全体的な正当性と円満さを、御義口伝などで明快に示しています。

※この文章のまま、「ゲーデルの不完全性定理」を理論の刀として振り回すのは大変危険です。 ゲーデルの不完全性定理については、是非とも、各自キチンと、専門書などを通して理解してください。


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よく、「三千大千世界論は最新の宇宙論を先取りした」というようなカタチで、 「仏法と科学は一致」と論ぜられることがあります。 これは仏法対話のネタには使えますが、 証明にはなりません。 この一致の根拠を述べることが証明となります。
私自身、この一致は必然だと感じてはいますが、証明は原理的に不可能だと思っているわけです。

質量とエネルギーの互換を "色即是空" とこじつけ、テレビに登場して言いたいことを調子にのってペラペラと喋った坊主がいましたが、 彼らも結局同じで、一致点 
(一致と言えるかどうかもビミョー) を見つけて喜んでいるだけです。  彼らのこじつけからは、仏教に対する興味関心を取り戻すために科学を利用したいというセコい魂胆が見てとれます。

池田先生は、1965年に 『科学と宗教』 を発表し、科学と宗教の歴史的関連性を俯瞰し、仏法と科学の一致点を考察し、 科学の限界に言及しています。 その後、 『生命を語る』 『仏法と宇宙を語る』 などを発刊しています。 モスクワ大学のログノフ総長との対話でも、仏法を科学的に考察し、また科学を批判しつつ、その未来について意見を交換し、 1965年と同じ 『科学と宗教』 という題名で1994年に発刊しました。 それらの対話の中では、 科学の限界や、それを用いる人間の人間性が主なテーマになっており、科学を 「特定の宗教の正当性を証明するための武器」 として利用する という発想がいかにナンセンスなものであるかを学ぶことができます。

実際、科学でいうところの生命論や宇宙論、また深層心理学や精神分析学の研究成果には、仏法との一致点が多いのです。  しかもそれは、科学が既成の説を修正する度に仏法に近づいていくように見えたため、私も、 科学によって仏法が証明される日が来るのではないかという期待を抱いていました。
しかし繰り返しになりますが、一致点が多いということが、証明にはならないのです。 「なぜ、一致するのか?」を示さなければなりません。 我々のできることはせいぜい、仏法と科学で説が一致している "点" を解釈という "線" で結び合わせ、 そこに形作られた星座の中にロマンを見る程度のことなのです。 どんなに密な線で織り上げられた星座を想像しても、 それは 「証明」 ではなく、 「仮説」 ですらなく、類似性を根拠にした 「推測」 に過ぎません

なんかちょっと残念な気もしますが。

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戸田先生が 「証明」 と語ったのは、 「実験証明」 のことであることは明白です
仏法が科学的論理で証明できない以上、実績を積み上げながら、 「こう考えるほかない」 という納得を広げていく以外、 広宣流布の道はありえないのです。  もしも科学が仏法の正当性を証明し、結果だけを「バーン」と叩きつけてしまったら、 その瞬間からただちに宗教は権威主義へと堕してしまうでしょう。

しかし私としては、だからといって、科学と宗教がまったく独立した路線を闊歩するのではなく、互いの暴走や誤謬を防ぐべく、 お互いにチェックし合いながら進んでいくことがベストだと考えています。

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こうした考えを経て、私がこの問題に終止符を打った時、はじめて、
「信仰というものは、結局、もうやってみるしかない」 
という 結論になったことは事実です。
「理 (理論)」 だけではなく「事 (現実への展開=行為) 」が必要なのです。

いかがでしょう? 結局 「行学が大事」 という、ごくありきたりのまとめになりました。
しかし、ここに至るまでの思考過程を持っている人と、持っていない人では、
活動への心構えや、実証に対する観察力が、一味違ったものになっていると信じたいですね。


2011/12/28 

2011/12/31 加筆
2012/01/09 補遺

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