前へ 早見表へ 次へ 
   ポームに戻る   

一廿八品悉南無妙法蓮華経の事
一無量義経の事

〔32-00b〕


 御義口伝に云く妙法の序分無量義経なれば十界悉く妙法蓮華経の序分なり。


 無量義経は、法華経の説かれる直前に、説処も同じ霊鷲山において説かれた。徳行品第一、説法品第二、十功徳品第三の三品よりなる。この説法品第二に「無量義とは一法より生ず」と説かれているが、この一法こそ次の法華経で説かれる妙法蓮華経である。無量義経は法華経の開経であり、序分であることが明白である。  御義口伝には、次のように仰せである。  妙法の序文は無量義経である。したがって十界の森羅三千はことごとく南無妙法蓮華経の序分であり、一切が三大秘法の南無妙法蓮華経に流入することをあらわしているのである。








  ※抜粋 ( 引用文献 )
 いま、無量義経が法華経の序分として説かれたのは、無量の諸法が、妙法の序分であるゆえんをあらわしているのである。  したがって、われわれの生活においても、人間性にかなった、当然の法、習慣は、その究極をたどるならば、悉く妙法であり、妙法にかなっているのである。

 諸法実相抄に「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」と。また、これをさらに詳説して、
 「さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」と。
 これらの御文によって明らかなごとく、十界の姿それ自体が、本質は妙法蓮華経なのである。地獄は地獄のまま、餓鬼は餓鬼のままに、妙法の当体である。これを悟ったときに仏となり、迷い疑うときは、九界の闇をさまようのである。
 悟るときは、受持即観心であり、御本尊を受持し、絶対と信ずることである。これが直達正観の仏法なのである。
 地獄界から人界、人界から菩薩界と進み、この菩薩界から仏界に入るといった釈迦仏法を否定し、地獄は地獄のままに、ただ題目を唱えることにより、煩悩即菩提と転じて、直ちに成仏する即身成仏の原理を述べられているのである。


   PDFで見る



  関連語句: 序分 正宗分 十界三千の諸法は南無妙法蓮華経の序分


 前へ 早見表へ 次へ 
   ポームに戻る   

    inserted by FC2 system